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摘み子

茶園内標高差や畝立てによる茶摘み時期の違い(中井孝さん(S29生・原山)談)

イワサカという優良な茶園(2反)は、やや縦長の縦畝茶園だった。1畝が50mほどもあり、山頂側と麓では気温が違うため、摘む時期も違った。同じ茶園でも、半分に区切り、上半分から摘み、3日後に下半分を摘む、といったようだった。また、傾斜のある横畝の茶園の摘み方にも気を遣ったという。場所によっては畝の山側の芽が谷側よりよくほこるため先に摘み、谷側の芽を後に摘んだこともあった。

地域的標高差による茶摘み時期・摘み方の違い(昭和18年当時の様子)

寿美栄さんが18歳の頃、門前では朝宮に若い女性たちが茶摘みに行く習慣があったという。寿美栄さんも青年学校に通っていたときに一度、門前の一番茶が終わってから20~25日間、朝宮の山本義雄さんの家に行ったことがあった。その頃、朝宮の茶摘みはムラの女の子なら誰でも行きたがったものだった。

摘み子を募って現地に連れていく茶摘みリーダーの女性が各区いて、「カゴマワシ」と呼ばれた。寿美栄さんたち一行(10人)は、門前から現地まで、2時間ほどをセキダを履いて歩いて行った。

和束は「折り摘み」だったが、朝宮では「しごき摘み」だった。摘んだ茶の芽を運ぶのを専門にする「芽運びさん(男性)」がいた。製茶は、早蒸し→うちわで粗熱取り→粗揉機→ホイロ仕上げだったようだ。

多くの茶摘み姿は、長着に四幅マエダレ(前掛け)、手甲をしていた。手甲の紐は、若い女性なら赤色、年配の人は黒が多かった。寿美栄さんは、朝宮にはモンペ・ハンチャ(二部式の上着)・手甲のスタイルだった。雨の日は、蓑と笠を着た。

朝宮での食事は、一日4回。朝ごはん・ケンズイ(11時頃)・ケンズイ(15時頃)・夜ごはん。和束では、朝ごはん・ケンズイ(10時頃)・昼ごはん・ケンズイ(15時頃)・夜ごはんの5回だった。朝宮のケンズイはお弁当で、蕗のたいたんや塩昆布、お漬物がおかずだった。食事や休憩までの作業のことを「ヒトカケ」といい、ヒトカケごとに茶の芽を集られ家まで持ち帰られた。昭和初期の手摘みでは、ヒトカケで茶摘み籠1杯摘めた。

山本さんの家には、母屋の向かいに長屋があり、そこで摘み子が共同生活をした。家の横に小川があり、そこで洗濯もした。

ちなみに、前出の西田栄さんは「白栖や釜塚の人は田辺へ昔も今も行ってるで」と言い、湯船の前田健一さんは「湯船は、田原(宇治田原)や朝宮によう行ってたな」とも言う。

ヒヨウさんへの対応

当町での茶業のヒヨウさん(季節労務者)は、奈良・滋賀・三重の各県をはじめ、近年では和歌山県や石川県とも行政的に労務交換を行ってきた。また、親戚とテマガエシをしたり、町内の馴染みの人にヒヨウに来てもらった。ヒヨウさんは摘み子の女性が多かったが、ホイロを使ってた時代には、町内をはじめ県外(主に奈良)からもホイロ師がきていた(4)。

ヒヨウさんの献立。「茶摘むのもえらい(大変)やけど、食べる用意もえらかった」と笑う寿美栄さん。
一家の主婦はヒヨウさんに随分気を遣った。

藤井家では、1番茶・刈り直し・2番茶と、心安くしている町内の人3人に茶摘みのヒヨウに来てもらっていた。二人式茶刈り機を津余暇いようになってからは、毎年1日だけ来てもらった。平成6年から始めた碾茶では、その製茶サイクルが早いため、芽運びさんに学生や留学生にバイトに来てもらった(町が斡旋していた)。

作業は、朝7時30から9時(30分のケンズイ)、9時30分~12時(1時間昼休み)、13時~15時(30分のケンズイ)、3時30分~17時というスケジュールでやってもらった。

茶摘みを始める1週間ほど前には「ホイロイワイ」として餅(蓬・白)を搗いた。ヒヨウに来てもらう人の家に、餅と手付金(1日の日当分)を渡し、茶摘みの日を告げた。製茶が終われば、ヒヨウさんと全員で「ホイロジマイ」をする。バラ寿司と茶碗蒸し、時には鶏やウサギをつぶしてすき焼きにもした。これらの接待は、製茶を止める平成20年まで行っていた。

4.谷岡武雄「宇治茶の勞働力の特色とその季節的推移」(日本地理学会『地理学評論』第23巻・1950)

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