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茶園の畝間・茶園周辺の民族

ホータラ入れ

茶園の畝間の耕作に使う道具

茶園の畝間に敷く草木(ホトラ・ホータラ)を刈る「ホータラ刈り」が、2番茶が終われば9月20日頃まで行われた。ホータラは、持ち山やヤマダの土手、中尾にある通称ヤスンバによく取りに行った。一人で一日2荷(4束)採る。二人で4荷採って茶園の傍に2日ほど置いて、寿美栄さんがホドキ役として茶園に敷いていった。1反の茶園にだいたい20荷(40束)施した。

ホータラになる草木は、カヤ(ススキとも)やササが主だった。シロキ山(雑木山)にはササが多かった。クマザサが上等で、畝間に厚く入れることで「茶の香気が増しますねん」とのこと。またクヌギの若枝(径1~2㎝)は、栄養分もあり、非常によいホータラである。イヌシダは松山の下草として大量にあり、肥料にはなりにくいが「草倒し(雑草防除)にはもってこい」という。

宗助さんは昭和22年、府の茶園自給肥料増産品評会にて2等を収めた経験がある(敷き草の厚さを調査員が測って決めた)。ホータラ刈りは、昭和60年には上野まで行ったこともあったが、平成3年以降は藤井家では行われていない。

植澤博光さん(S11生・木屋(こや))によると、昭和40年代まで「ホトラ刈って束ったらよう売れたよ」といい、各地で刈られたホトラが木屋に集められ、販売する業者もいたという。大正末期まで、和束の河川物流の本拠地だった木屋は、長い間物資の集積所にもなっていた。

茶園の中に残る柿の木。 ドウデンの茶園。フチに柿の木が残る。
この前にも2本あった。
岩本柿渋店に集荷された「テンノウガキ」
(いずれもH24年撮影)

現在でも、茶園内やフチには柿の木が見える。特に渋柿は柿渋を採るのに重宝された。

日蔭として

特に2番茶の時分には、柿の木の木陰がありがたかった。休憩場所にも良かったし、摘んだ芽を入れたオオカンゴの置き場となり茶がくみる(発酵して腐る)のを防ぐのにも良かった。

柿渋原料として

現在、町内には岩本柿渋店(石寺)がある。昭和中頃までは町内に4~5軒ほどあったようである。
宗助さんは、昭和60年頃まで、岩本柿渋店に渋柿を買ってもらった。収穫期は、昭和30年頃は9月末~10月20日の間(現在は9月一杯)だった。渋柿の中でも「山柿」や「テンノウガキ」という小ぶりの青柿の渋が強烈で、買値も良かった。宗助さんは、ヨノキの茶園の傍にある2本の山柿にツルノコを接ぎ木にして渋柿を量産した。藤井家では昭和48年まで自家用の柿渋を取っていた。斗樽に入れ、コブの木で搗きつぶしジンドウで絞り汁を採った。

柿渋は、主に日本酒の清澄剤(玉渋)となったが、防腐・撥水・耐久力強化のために、カゴ(コカゴ・オオカゴ・ボテ等)や桶など製茶道具や投網など、多くの道具類にも塗布された。

食用として

  • フユガキ
  • ツルノコ
  • トヨオカ

マオ(真苧・カラムシ)

茶園やシラハタのフチには「マオ(真苧)」が自生していた。10月頃に鎌で刈って水に漬け、柔らかくなったマオの外皮を剥き干したものを綯って「アオソ(青苧)」とした。紐として多用し、茶や小包等を梱包する際に結ぶ際に使った。下駄の鼻緒の芯にも入れた。

コンニャク

現在は、シラハタ(自家菜園)に植えられることが多いが、ホータラをよく入れていた頃には、畝間にはどこにでもコンニャクが植えられていた。コンニャクは「彼岸(春)に植えて彼岸(秋)に掘る」もので、3年モノが粘りがあってよい。寿美栄さんは凝固剤として、「胡麻ガラのアクが香ばしてエエねん」という。コンニャクは、天満宮さんの秋祭り(10月7・8日)で、イエの料理の一品として欠かせないものであった。田楽や甘醬油の炒り煮にされる。お正月の煮しめにもする。

柑子

昭和50年頃まで、当地では柑子栽培が盛んであった。「撰原柑子に銭司蜜柑」と言われるほどであった。ドウデンで8反6畝の柑子を栽培していて、奈良の京終まで自転車で売りに行っていた。昭和55年にドウデンは茶畑に改植した。

茶の実

宗助さん・寿美栄さんともに、子どものころ、秋になると友達と茶の実を拾って歩いた。集めて学校に持っていった。茶の花が咲くころには、誰もが村中の茶園の花の咲き具合を確認して目星を付けていたという。学校には、量の限定はなかったが、一番茶も持っていった。

ワラビ・ゼンマイ

ノキの茶園周辺ではワラビがよく出た。木灰をふりかけ上から熱湯をかけてアク抜きした。ゼンマイは茹でて笊にあげ、木灰をまぶして筵の上で揉み、天日干しした。平成10年頃まで行った。

イボ

ヨノキのイボ。使わなくなって久しく、朽ちていた。
手前のポリタンクは消毒時に使用。
ホンノモトのイボ。こちらは全部トタン張り。
中に防霜布や茶刈機が収められている。(いずれもH24年撮影)

茶園や田の傍には、場所によってイボ(農小屋)がある。開墾当時のヨノキのイボは3畳で藁ぶき・筵壁。昭和40年代に延焼したため建て替え、トタン葺き・土壁のイボになった。中で昼食やケンズイを食べた。

特に2番茶の時分には、柿の木の木陰がありがたかった。休憩場所にも良かったし、摘んだ芽を入れたオオカンゴの置き場となり茶がくみる(発酵して腐る)のを防ぐのにも良かった。

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