和束町茶業年表
平安時代〜江戸時代
平安時代
年号(西暦) | 世界 | 日本 | 京都府内 | 和束 | 備考 |
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延暦24年(805) | 最澄、近江坂本日吉社に唐より将来すた茶実を植えるという。また茶(団茶)を持ち帰ったという。 | ||||
大同1年(806) | 空海、帰朝して真言宗始める。中国より、茶種、石碾を将来したという。 | ||||
弘仁6年(815) | 4月、嵯峨天皇、近江韓崎に行幸のさい、梵釈寺にて、入唐帰朝の僧永忠が茶を煎じる。 6月、嵯峨天皇、畿内及び近江、播磨の国々に茶を植えることを命じたという。 |
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天徳4年(960) | 村上天皇、御悩のとき、六波羅蜜寺の観音菩薩に備えた茶を天皇に賜ったところ、平復されたという。王服の茶(大福茶)ここに始まる。 | ||||
建久2年(1191) | 栄西、宋より7月平戸に帰国し、禅宗(臨済宗)、抹茶法を伝え、この時茶趣旨を将来したという |
鎌倉時代
年号(西暦) | 世界 | 日本 | 京都府内 | 和束 | 備考 |
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建仁2年(承元元年)1202(1207) | このころ、明恵上人が栄西より茶種子を得、京都栂尾高山寺近傍の「深瀬三本木」に植える。栂尾茶発祥の地に植える。 | ||||
建暦元年(1211) | 栄西「喫茶養生記」3巻を著し三代将軍実朝に献進する。 | ||||
13世紀前半 | 明恵が御室仁和寺、洛西葉室、山城宇治に茶を播く。現宇治市五ヶ庄西浦に茶を植える。宇治茶発祥の地。 | 海住山寺の慈心上人が、明恵より茶種の分与を受け、鷲峰山麓に栽培したとの伝え。 | |||
(南)興国元年(北)暦応3年(1340) | このころの成立になるという「異制庭訓往来」に、主たる茶の産地として記述がある。(※) | (※)我が朝の名山は栂尾を以て第一となすなり。仁和寺、醍醐、宇治、葉室、般若時、神尾寺は是れ補佐たり。その他、大和室尾、伊賀八島、駿河清見、武蔵川越の茶、皆是れ天下の指言するところなり。 | |||
(南)天授4年(北)永和4年(1378) | 足利義満、山城代満(あるいは大内義弘)に命じて、茶を宇治に植えさせ、宇治、醍醐、栂尾の三か所を茶園の佳地と定め、盛んに茶をもて遊んだ。これにより諸国の領地地頭もこれにならい茶樹の繁殖をはかったという。 | ||||
(南)天授5年(北)唐暦元年(1379) | 足利義満のころ宇治の茶、足利将軍家及びその周囲の武将により特別の庇護を受ける。七園と称する指定茶園となる。(※) | (※)七園とは、森、川下、朝日、祝井、奥之山、宇文字、琵琶の七か所であった。 |
戦国時代
年号(西暦) | 世界 | 日本 | 京都府内 | 和束 | 備考 |
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文明13年(1481) | 一条兼良没する。その著「尺素往来」に「宇治は当代、近来の御賞翫にして、栂尾は此の間、衰微の体に候と雖も、各下虚しからざる諺思召し忘られる可からざる者乎」との記載がある。 |
安土桃山時代
年号(西暦) | 世界 | 日本 | 京都府内 | 和束 | 備考 |
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天正年間(1573-79) | 和束郷原山の地に茶苗5段7畝歩を播き付けたのが始めで、各地に伝播し自給から、商品生産に。 |
江戸時代
年号(西暦) | 世界 | 日本 | 京都府内 | 和束 | 備考 |
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慶長15年(1610) | オランダ東インド会社、平戸からバンタムを通じてヨーロッパへはじめて日本茶を輸出。これがヨーロッパへもたらされた最初の日本茶であるといわれている。この茶は、抹茶ではなく、釜炒茶と推定する説がある。 | ||||
承応3年(1654) | 隠元禅師、中国より渡来して黄檗宗を開く。雲花園銘には、「檗山(隠元)来朝して・・手ずからく む。」と記す。 | ||||
万治3年(1660) | ロンドンで茶が始めて新聞に広告される。 | ||||
元禄5年(1692) | 人見必大の「本朝食鑑」板行される。この中に、茶の名産地として抹茶は宇治、煎茶も宇治を第一とし、・・・との記載がある。 | ||||
元禄9年(1696) | 宮崎安貞「農業全書」を板行。五穀以外に茶を四木(茶・楮・漆・桑)の筆頭にあげ、その栽培、製造について詳述する。また、「都鄙、市中、田家、山中ともに少しでも園地となるころあれば、必ず多少によらず茶を種べし、左なくして妾利に茶に銭を費やすは愚なる事なり。一度植え置けば幾年を経ても枯失るものにあらず、富むる人は慰となり、貧者は財を助る事多し」と記す。 | ||||
宝永6年(1709) | 「畑方之作毛煎茶下価罷成」・・・との記録があり、煎茶栽培の事実。 | ||||
寛永10年(1633) | お茶壺道中の制度化。幕府の茶壺を受け入れるのは、宇治郡池尾村、久世郡寺田村・高尾村、綴喜郡江津村の6ヵ村が宇治枝郷と名付けられていた。 | ||||
宝永5年(1708) | 山城国湯船、奥山新田を開く時、煎茶栽培の記録がある。(大智寺文書) | ||||
享保17年(1732) | このころ、京都の人とされる三宅也来「万金産業袋」を著す。その中に「挽茶並煎茶」の項があり、諸国の銘茶、茶の製法、その商品価値について詳述している。 | 煎じ茶の普及につれ、嗜好品として品質が追求される。もはや釜炒り茶の製法を離れ、永谷宗円の方法と変わらない。 | |||
享保19年(1734) | 山城志が著され、和束郷の土産として茶が記載されている。 | ||||
元文3年(1738) | 山城国湯屋ヶ谷村の永谷宗七郎(宗円)蒸製煎茶製法発明する。 | ||||
寛保2年(1742) | 売茶翁高遊外、山城国湯屋ヶ谷村に永谷宗円を訪ね、自園の新茶を賞味し、激賞したという。 | ||||
寛保3年(1743) | 「白栖村明細帳」によると、山城国白栖村では、禁裏新御料であった茶樹栽培について、「煎茶第一仕り、但し一ヶ年に三百本ほど売る出し候。一本につき六十七匁にて値段仕り候」などという記載がある。 | ||||
寛永年間(1748-50) | 和束郷の原山に2人茶業するものあり。和束郷の門前に2人茶業するものあり。和束郷の石寺に1人茶業するものあり。 | ||||
天明年間(1781-89) | 永谷宗円の宇治製法は多賀、井手に広がる。 | ||||
寛政年間(1789-1801) | 永谷宗円の宇治製法は飯岡、中邑(京田辺市)に広がる。 | ||||
19世紀前半 | 永谷宗円の製茶法は、現在の主要産地に広がる。 | ||||
文化8年(1811) | 煎茶の生産は、相楽郡、綴喜郡此の2郡も田原郷、和束郷を大として・・・であるが生産量は少ない。 | ||||
天保年間(1830-43) | 筒井嘉兵衛は、宇治の問屋に売らず、直接に江戸伝馬町二丁目の芽加屋善右衛門に出荷し好評。その後1000斤の取引。(※) | (※)斤斤(きん)は、尺貫法の質量(重量)の単位である。1斤=600g | |||
(1834-5) | 宇治の茶商上坂精一、碾茶園の新芽を摘んで製茶したところ香気非凡で非常に好評を博したという。(※) もう一つの説として、宇治の茶師山本嘉兵衛が玉露の製法を発明したという。(※) 玉露の創製で、碾茶生産とは別に玉露を生産するための被覆栽培が増える。 |
(※)玉露創製者には複数の説がある。 | |||
天保14年(1843) | 玉露を生産する村が「覆い下茶製村名」として表示され、相楽郡27、綴喜郡29、久世郡22、山城宇治郡14。 | ||||
嘉永6年(1853) | 城江銘茶製所鑑に、は綴喜郡郡、相楽郡の村名も見られる。(※) | (※)村別に序列を整理してみると、相楽郡では、和束郷が煎茶の主産地であることが分かる。 | |||
嘉永年間(1848-53) | 4000斤内外の茶を生産販売。(※) | (※)1斤を約600gとすると、約2.4t | |||
安政5年(1858) | 原山の久保八郎衛門が広島市大手筋二丁目に茶店を営み、松平芸州守の御用茶師となり、中国地方での知名度得る。 | ||||
安政5年(1858) | 日米修好通商条約調印により、外国販路開かれ、茶の市価あがる。 | ||||
安政6年(1859) | 横浜、長崎、箱館の開港以後に、茶の輸出増加。一時停滞するも、南北戦争の終結により増加。ただし、宇治製法ではなく中国茶の代替品としての釜炒り茶等が主力か。 横浜開港と同時に製茶39万6810ポンド(180t)が輸出される。日本茶の輸出ここに始まる。 大浦慶女史、貿易商オルトより製茶1万斤の注文を受け、輸出したという。 |
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慶応3年(1867) | 神戸港の開港で、茶の輸出が開始される。 | 茶産地は、山城を主として、近江、伊勢、伊賀、大和、駿河、遠江、下総、武蔵 | |||
神戸港の開港により、国内茶業が活況となる。 | 相楽郡でも開園新植が増加し始める。全域で生産されていた。(木津町も精華町も) |