年号(西暦) |
世界 |
日本 |
京都府内 |
和束 |
備考 |
明治元年(1868) |
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製茶量約1000万斤に達す。(安政6年6月横浜開港以来明治24年まで年次的に増加。) |
神戸茶市場開設。本府茶の進出盛んとなり茶価高騰。 |
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宇治田原郷之口の奥田熊次郎が、神戸に店舗を借り受けてアメリカのスミスべーカー商社に茶を売り込んだ。神戸港での茶取引の最初。 |
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伊勢屋九兵衛ら童仙房開発の引請方を申請。 |
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明治3年(1870) |
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日本茶の輸出額1800万ポンドと激増。これは、アメリカ合衆国の大陸横断鉄道完成により太平洋航路が開け、従来の大西洋回りを捨て、横浜港より、桑港に直送されるようになったことも原因とされる。 |
童仙房開拓を開始。(※) |
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(※)もともと伊勢屋九兵衛等町人の首唱で計画されたが府は勧農奨励と士族授産の見地から府の直営とし土木掛市川義之を開拓掛として6名の御用掛をつけた。この中に京都の町人、近郷の庶民も選ばれた。しかし、士族は秩禄公債をうけてから敢えて帰農しようとしなかった。京都市中、近隣の有志、141戸が募集に応じて家族移住した。 |
明治4年(1871) |
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輸出茶の品質、斤量の偽ることを厳禁する。 |
京都府としては、茶の輸出奨励策として「物産引立総社」、「南三郡茶商会社」に輸出用の釜煎茶、釜焙茶の製造を誘導。(※) |
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(※)高級茶である碾茶、玉露は積極的な輸出を行わなかった。 |
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京都市、宇治市と周辺地域は碾茶、玉露であり、輸出向きの煎茶製造が課題として、荒廃茶園などの煎茶園転換等の建白 |
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永谷武右衛門等城南三郎茶商会社設立。/京都府は城南三郡の茶商人に諭して商社を結び、神戸在住のレーマン氏を通じ西洋へ直売する輸出茶を焙製させた。 |
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管内民貯の茶実を買集める。 |
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明治5年(1872) |
アメリカ合衆国、茶輸入税を廃止する。 |
ドイツ式農学拡がる。 |
茶道の一時的衰退により、碾茶の需要が減退するが、国内需要が増加しつつあった玉露に生産転換し始める。辻利右衛門が新玉露「大門」を発表。 |
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輸出額増加し1948万ポンド(422万円)、主産地は、山城、大和、伊勢、伊賀、近江、駿河、遠江、下総、武蔵の諸国と記録される。 |
支那紅茶を南山城に栽培せんとす。 |
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明治6年(1873) |
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初の紅茶試製 |
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明治7,8 |
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全国的に輸出が盛んとなる |
京都栽培試験場で初の硫安肥効果試験 |
自ら神戸に商館を設けて、直接に外国人相手に茶貿易を行う人も出現する。 |
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明治7年(1874) |
内務省勧業寮農政課に茶業掛を設ける。 |
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上狛村円成寺檀家の茶業者、本願寺へ毎年新茶と番茶を奉納するため「番茶講」を結成する。 |
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政府は「紅茶製法布達案並製法書」を府県に配布して、その製造を奨励する。 |
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明治8年(1875) |
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札幌農学校開設。 |
久世郡、宇治郡、相楽郡で、茶実を109石1斗を集める。相楽郡の名もあり、茶業にいそしむ人々が、増殖もこころがけた。 |
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第一回内国勧業博覧会が東京上野公園で開催される。(※) |
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(※)内国勧業博覧会には、製茶機械が出展された。 |
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政府、多田元吉を茶業調査のため、清国に派遣する。 |
茶の実が不足しているので、茶府県への移出を禁じて、その実を買い上げる方策を講じる。が、民間の相対に任せた. |
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内務省、清国人を雇い、大分県の木浦と白川県(熊本県)の人吉に製造所を建て、紅茶の伝習をする。 |
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明治9年(1876) |
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政府、勧業寮員である多田元吉、石河正竜、梅浦精一をインドに派遣し、インド風紅茶製造法を研究させる。 |
山城三郡茶商社解散。(※) |
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(※)このころより、茶業組合結成の気運があがる。 |
明治10年代(1877) |
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相楽郡誌に各町村の茶の生産量が整理されている。 |
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明治12年(1879) |
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横浜において第1回製茶共進会が開催される。848人が出品した。また、第一回茶業集談会が開かれる。 |
横浜の初の共進会で宇治茶最高賞をうけ、記念碑を建てる。 |
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本邦製茶の真味を具ふるもの、碾茶、玉露、池尾煎茶の3種。煎茶の代名詞として池尾使われる。 |
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明治13年(1880) |
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紅茶伝習所を岐阜、堺と熊本3県に増設し、分製所を鹿児島、大分両県に置く。 |
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明治15年(1882) |
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大日本農会京都支社設立。(※) |
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(※)京都府勧業場を仮事務所として北垣国道知事を幹事として発足した。府の300円の寄付をうけ多分に官治的農会の性格をもっていたが、明治19年には解散した。 |
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米国で不正茶輸入禁止令がだされたため、本府もこれが布告を発し自粛を要望する。 |
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明治16年(1883) |
アメリカが日本茶の輸入禁止条例を発効。 |
神戸で第2回製茶共進会が開催される。2752点の出品。 |
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アメリカへの対応として「茶業組合準則」の発布(※) |
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(※)他物若クハ悪品ヲ混淆シ或イハ着色スル等総テ不正ノ茶ハ製造販売セザル事 |
明治17年(1884) |
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茶業組合準則公布。 |
府茶業組合準則制定。(※) |
和束14ヶ村の特産物生産量(京都府地誌) |
(※)これによって府下の各郡区に茶業組合が生まれ、茶業組合取締所が設立された。(伏見下板橋) |
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和束14ヶ村の自然条件(京都府地誌) |
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和束14ヶ村の家畜飼養数(京都府地誌) |
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和束14ヶ村の人口(京都府地誌) |
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茶業の中央組織として、中央茶業組合中央本部創立。 |
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和束14ヶ村の緑茶生産量グラフ(京都府地誌) |
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明治18年(1885) |
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第一回茶業中央本部会議開かれる。 |
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茶の荷票制度なる。横浜、神戸、長崎に送られる茶荷1個につき2銭の賦課とする。 |
伊藤熊夫が山城製茶輸出会社を設立。(※) |
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(※)製茶の再製と直輸出を目的として伏見板橋に設立された。この会社は、辻利右衛門ら大株主で茶商人が主力であった。7カ年で解散している。 |
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埼玉県の高林謙三、生葉蒸器、焙茶器、製茶摩擦器械を発明する。 |
紀伊郡堀内村で製茶品評集談会。各府県の交換見本なども多数展示された。 |
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明治20年(1887) |
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茶業組合規則公布。 |
京都製茶会社生まれる。(※) |
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(※)下京に作った山城製茶社分社は総会で議論沸騰したがついに分離独立して新しく京都製茶会社を創立した。 |
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このころ、静岡県下で、茶の剪定鋏が普及する。 |
茶業取締所を茶業組合聯合会議所と改称 |
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輸出茶につき米商館主トーマス氏が提案。(※) |
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(※)山城製茶会社の総会に招かれた神戸在住米国商館主トーマス氏は「米国各州を巡回し山城茶の宣伝を行い、不良茶を一掃し正銘の山城茶販路拡張のため一人の特派員を米国に出張させる必要」を提唱し、実行に移すこととなった。 |
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京都府茶業組合聯合会議所の事務所を勧工場内におく。(※) |
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(※)製茶の販路を拡大し、不正粗悪茶を取締り特に良茶の輸出促進を主たる目的として併せて紅茶製造も奨励した。 |
明治22年(1889) |
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神戸市に近畿各府県で共同の茶業調査所設立方針決まる。(※) |
茶業組合聯合会議所が伏見に紅茶伝習所設立。 |
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(※)京都、大阪、滋賀、三重、奈良の二府三県の茶業者は、神戸の外国承認の不正取引を抑圧するため共同調査所を神戸に設ける計画を立てていた。独り大阪の業者の一部で足並み揃わず心配されたが、大阪も承諾したので、断乎公正取引のため調査所を設ける方針を固めた。 |
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旅行者向けのお茶の販売が静岡駅で始まる。 |
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明治22,23年 |
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不正手段により日本茶の信用失墜 |
茶園の維持も困難となる |
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明治23年(1890) |
フランス、パリで万国博覧会が開催される。 |
フランス、パリで開催された万国博覧会に、茶業組合中央会議所は、日本茶宣伝のため、喫茶店を開設。 |
琵琶湖疎水竣工式 |
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第三回内国勧業博覧会が東京上野公園で開催される。 |
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京阪近県申し合わせ、神戸市に共同製茶調査所設立 |
伊東熊夫らが京都府茶業聯合会議所を開設 |
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明治中期 |
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製茶機械の発明・考案が盛んであったが、手揉み製茶に品質がおよばず、むしろ品質低下するものとの非難あり。 |
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露国に紅茶を輸出し好評。 |
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明治26年(1893) |
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前田正名が日本茶業会を組織。 |
茶業組合聯合会議所は、木津町、丹波高原村に紅茶伝習所を設置。 |
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明治27、28年 |
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全国茶業者団体設立。 |
茶の製造が不利となり、作付けを麦、芋、野菜等に変換する動き。 |
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日清戦争が、産業に影響する。 |
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明治28年(1895) |
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第四回内国博覧会を京都で開催。本庁より多数出品する。この機に京都府製茶注文品輸出保護規程を設ける(※) |
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(※)第四回内国勧業博覧会での成績 |
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(※)輸出に取り組む「湯船製茶改良社」も出品した。 |
明治29年(1896) |
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東京、西ヶ原に農商務省製茶試験所を設置。 |
京都府茶業組合聯合会議所が、模範製茶場(山城2ヶ所、丹波1ヶ所)に設ける。 |
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明治31年(1898) |
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埼玉県の高林謙三、茶の粗揉機を発明。 |
京都茶業者が米国製茶課税案に反対。(※) |
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(※)米国で輸入茶に課税せんとする気配濃くなり、京都の茶業者も大いに憂慮し、米下院通過に先立ち、強力な反対運動を政府に建議することとなった。藤木林種を代表とし東上、関係府県と連合して政府に意見書を提出した。 |
明治32年(1899) |
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清水港の開港に伴って、茶貿易の主体が横浜、神戸から清水に移る。 |
茶業組合聯合会議所が製茶試験場を紀伊郡堀内村に設置。 |
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茶産地は、紀伊郡堀内村と宇治郡宇治村、久世郡宇治町が中心的存在。 |
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明治34年(1901) |
米国の茶税撤廃により、茶価騰貴(1斤30円) |
茶業組合聯合会議所が、販路拡大のため森本秀二郎を米国に派遣。 |
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三木楽器に繋がる三木佐助が、玉淵叢話を著し、茶業部事業について述べる。 |
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明治35年(1902) |
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茶価35円、40円と騰貴し、茶園の培養に力を入れる。 |
茶商人ヘリヤ氏、市議事堂で講演。(※) |
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(※)ヘリヤ氏は大森知事の招きで入洛、市議事堂で講演。氏はアメリカ市場の体験を基礎として、米国で価格よりも品質を重んじていること、関西茶より関東茶に移っている点、印度、支那、セイロン茶との競争も激しいことを述べ、山城茶の品質向上が輸入税廃止とともにいよいよ急務であることを力説した。 |
明治36年(1903) |
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第五回内国勧業博覧会が大阪市で開催される。 |
1町7反の茶園から煎茶「藤の森」2650斤(約1.5t)生産し、1100円で販売。反あたりは156斤、65円の収量。 |
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明治37年(1904) |
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山城茶業販売組合設立。 |
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相楽郡製茶販売組合設立。府費の補助をうけ模範製茶再製工場を準備する。 |
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明治38年(1905) |
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製茶焙炉師に勧奨策。京都府茶業組合連合会議所では、時局下製茶改良をすすめるため優良焙炉師に対して割増金を付加するすることとした。 |
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相楽郡茶業組合模範製茶再製工場設立。 |
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明治39年(1906) |
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大豆粕輸入増加、魚肥を圧倒する。 |
伏見の京都府茶業試験場で始めて粗揉機を試用。 |
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明治40年(1907) |
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京都府が、製茶取締規則制定。 |
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明治41年(1908) |
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肥料取締法公布 |
宇治川電気KK宇治発電所起工。 |
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明治41年(1908) |
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杉山彦三郎、静岡県において茶品質「やぶきた」を選抜する。 |
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明治42年(1909) |
米国加州下院が、排日法案撤回。 |
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京都茶業組合聯合会議所が、製茶共同製造奨励規程設ける。 |
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相楽郡地主会結成。 |
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明治43年(1910) |
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石灰窒素が始めて市販される。 |
製茶粗揉機競技大会開催。 |
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明治45年(1912) |
アメリカ市場における紅茶の輸入量が緑茶を上回る。 |
電力利用製茶が静岡で始まる。 |
京都市電竣工。 |
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