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和束町茶業年表

昭和中期〜戦後復興期

昭和戦中

年号(西暦) 世界 日本 京都府内 和束 備考
昭和17年(1942)     府樹園地整理し、麦作へ転換。
麦生産目標25万石を達成するため1690町歩の桑園、茶園、果樹園を整理して麦作に転換を指導したが、特に積寒地帯に対する肥培管理に周到な注意を喚起した。
   
昭和19年(1944)   松根油増産要綱できる。
主食に大豆粕が配当割り当て。
茶の集荷が系統農業会の統制となる。
京都府農業会発足。
府下の農会産業組合等系統組合55団体を統合し、農業に関する国策協力機関としての使命を完遂させるため新たに京都府農業会が発足した。知事指名によって会長に購販連会長だった俣野昌平氏が任命された。

厩肥増産のため無畜農家の解消へ。
府は自給肥料増産の一環として無畜専業農家には牛、馬、無養鶏農家には鶏を飼養するため緊急協議会を開いた。

軍需のため松根油採取進められる。(※)
  (※)松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。(ウィキペディアから引用)

和束郷の中でも、湯船村や西和束村で、採取場があったと言われている。
昭和20年(1945)   製茶減産甚だしく、農林次官通牒により、製茶の需給が統制される。
ポツダム宣言を受け入れ無条件降伏(終戦)
府下に焼畑1000町歩の計画。
府は山野の未墾地を開墾し焼畑1000町歩を造成、穀類増産を企画し、そのため、学徒、農兵隊の出動計画などを真剣に計画し始めた。
   
  農業生産統制令の廃止。
第一次農地改革のマ指令発せられる。
農林省茶業復興五ヶ年計画をt連合軍総司令部に提出。
京都府が、仕上茶販売統制要綱を決定。
仕上茶の勝手な販売を統制することとなった。
   
    日本茶が、食糧見返り物資に指定され、復興が促進される。(農林時報に掲載された日本茶交易株式会社広告)      
昭和22年(1947)   国営茶原種農場を静岡、奈良、鹿児島(金谷、奈良、知覧)の三県に設置。

肥料配給公団令、配給規則できる。

農業協同組合法公布

全国茶統制組合が解散。
第一回関西製茶品評会が、京都府で開催される。

食糧切迫で小中学校の午後授業停止を指令した

各町村に農業共済組合設定
   
昭和23年(1948)   農業改良助長法公布

製茶公定価格廃止。

第二回全国茶業者大会を京都市で開催。茶の生産振興を主題とする。
農業改良普及員設置    
  近畿、中国、四国地方で、水稲品種農林22号、ミホニシキ、金南風普及し始める。 超過供出分に肥料優先配給。
5月11日府庁で開いた府食糧増産対策委員会で、①報償用肥料は超過供出分のみに優先配給する。②農業技術員の身分を安定させる。の二項目を決めた。

京都府農業会解散。
新たに京都府信連、販連、購連、運輸連などが発足することとなった。戦時中の天下り的農業団体の解体である。
京都府立木津農業高等学校和束分校(定時制課程、農業科、家庭科)設置。入学生82名。(9月)

京都府立木津農業高等学校廃止、同木津高等学校開校(10月)
 
昭和25年(1950)   肥料取締法施行

紅茶生産活況

関西輸出茶共進会が滋賀県で開催される。(※)
京都府農事試験場が下鴨から亀岡へ移転

府独自で単費土地改良開始
  (※)第4回関西製茶品評会の位置づけで、輸出促進のための品質向上を目指して開催された。翌年からは、第四回関西製茶品評会が開催されている。
  京都府茶業研究所 酒戸弥二郎が、テアニン発見。
(出典:平成21年度茶業試験研究成績報告会資料)
     
昭和26年(1951)   ビニール農業用に登場。 茶業協会発足する。
府内における生産者、問屋の総合団体として社団法人茶業協会が設立された。

京都府茶協同組合、冷蔵庫を設置。
京都府茶業研究所に隣接して、京都府茶協同組合は、府からの借地を利用し、府費補助を得て冷蔵庫を設置し、茶の販売改善に乗り出した。

府販連と購連が統合し府経済連連発足
和束郷茶品評会を和束分校にて行う。(12月)  
昭和28年(1953) 農産物の品種登録制度できる。   町村合併促進審議会設置。

関西製茶品評会と茶業者退会を宇治で開く。
第七回関西製茶品評会は11月1日宇治中学校で催された。宇治茶は5位をゆずり愛知県西尾地方の進出が目覚ましかった。知事は、①機械改良、②流通の合理化、III優良品種の導入に最善の方法を考えるとの祝辞をのべ、続いて茶業者退会で茶業団体の団結強化を力説した。
四か村長が、木津高等学校和束分校の振興について知事に陳情(2月)  
    南山城水害 南山城水害で東和束降水量680mm、大正池決壊。(8月)  
      茶優良品種の普及。
茶優良推奨品種9品種を決定し、知事の勧奨により導入農家に助成することとなった。(※)
  (※)きょうみどり、さみどり、あさひ、うじひかり、ごこう、こまかげ、あさぎり、おぐらみどり、やまとみどり。
昭和48年に、やまとみどり、あさぎりが、推奨品種から除かれる。
      木津高等学校和束分校の茶工場竣工式挙行(11月)  
      西和束村・中和束村・東和束村が合併し、和束町が発足(12月15日)  

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昭和成長期

年号(西暦) 世界 日本 京都府内 和束 備考
昭和30年(1955)       農業共済組合初の合併。
和束町で、西、中、東、湯船の4農業共済組合が府下のトップを切って合併した。
 
昭和32年(1957)     府の指導で両丹に初の荒茶斡旋所を開設。
茶取引を近代化するため府の指導で綾部に入札現金取引の斡旋所を設けたが、回を逐う毎に成績をあげた。
府道木津信楽線湯船隧道完成(3月)

鷲峰山国有林37haの払い下げを受け基本財産となる(12月)

木津高等学校和束分校が、大阪大丸、植物園で微量製茶機による製茶実演実施(6月)
 
    相楽茶生産組合、府茶業協会から脱退表明する。
府茶業協会の新荷票案は分担率が不正確だとして相楽郡茶生産組合が脱退を表明し新組合で対抗すると表明した。その后暫定協定で7月まで静観し、態度を保留することとなった。(※)
  (※)荷票案とは、茶の取引に応じた賦課金を何%にするかとの案。煎茶産地にとって不利なものであったと考えられ、団体を脱退することも辞せずに対抗した。
昭和33年(1958)     蜷川知事農政の抱負を語る。
新しい技術、合理的な経営、改善された暮らしを三位一体として①農協の強化、②売れる商品、市場の開拓、③治山治水、④農業技術を改善し、経営と暮らしを高める。この意味からも新市町村、新農村などの補助事業も効果的に行う。
宇治茶に対抗して、「和束茶」の名前で市場に出すべく、茶農家の機運が高まる。(私たちの相楽郡)  
    海を渡る相楽スイカ、アジア市場へ15満貫、今年から北海道へも海上輸送。 和束茶試作研究ほ場が設置された。(撰原峠茶園)  
昭和34年(1959)   日本茶業中央会設立。 京都府茶生産協議会設立

両丹茶業農業協同組合設立。
   
    茶貯蔵で取引改善に団結。(相楽郡茶業協同組合設立)    
昭和35年(1960)     府農業体質改善に共同化を打ち出す。
従来、税金対策として見られた法人化にとどまらず、生産性向上を軸とする経営近代化の方策として共同化が打ち出され、モデルケースとして夜久野原の屋外桑育等が取り上げられた。
青年研修所竣工(3月)  
    府農業試験場が、茶園の土壌分析に乗り出す。
老朽茶園の改良をめざし、900haの一斉調査を開始。
   
昭和37年(1962)     府農林部三重点方針を決める。
府農林部は新年度の重点方針を次の三点に決めた。①農協の合併、②省力経営の普及、③零細農の振興。製茶協同組合設立
和束中学校、湯船分校統合(5月)  
    省力経営推進のためパイロットファーム創設。
府は農家の労力不足対策、農業所得向上のため、水稲、茶、養蚕ごとで、府下13ヶ所にパイロットファームを創設して重点指導を行う事とした。
   
昭和38年     茶摘みに労災保険、山城で集団加入。    
    知事提唱により、モード茶づくりに一連式製茶機完成。
知事はモード茶(最多者利用茶)の高能率な増産をはかるため京都府茶業研究所の試作を命じこれを完成させた。
   
    茶摘娘の来援。
茶摘女の不足著しく、兵庫県などより635人が宇治等茶生産地に来援した。知事は、他県の労務者(兵庫県穴太郡山崎町婦人共励会等)に感謝状を贈呈し謝意を表した。
   
昭和39年(1964)   第18回オリンピック東京大会を開催      
昭和40年(1965)     京都府が、茶凍霜害の恒久対策として被覆資材の購入に補助。 茶冷蔵庫完成(8月)  
      和束分校で、農業科を廃し農茶業科を設置(4月)