ホイロ小屋
藤井家の製茶は、平成6年まで自園自製を行っていた。それから平成20年までは自園他製で、それ以降は、藤井夫妻は茶業をやめ、現在は知り合いの茶農家に茶園管理・製茶を任せている。以下は、ホイロ小屋周辺の変遷の様子である。
ホイロの消滅
現在家の横にある「茶工場」(約20坪・半二階)は、昭和46年に大型製茶機の導入で建て替えた。それ以前は平屋であった。ホイロが据えてあった時分は「ホイロ小屋」と呼んでいたが、昭和15年にホイロを取り壊し、製茶機械を導入し始めてからは徐々に「茶工場」と呼ぶようになった。ちなみに、土製ホイロ以外にも、土壁で枠を作り引出を備えた手作りの乾燥機を使っていた人もいた(二瀧嘉久さん(T12生・石寺))。
青芽保管と荒茶保管
アオメ運び用の袋 径90cmほどのオオカンゴ
昭和46年の茶工場建て替え時には、すぐ横隣に別棟で「芽入れ小屋(1間×3間・コンクリート土間)」を建てた。
摘んできた茶葉(アオメ)の製茶は、最盛期にはその日に終了できない場合が多い。その場合はアオメを翌朝に揉むことになるが、殺青されていない茶葉は発酵すると赤くなり、品質低下につながる。
藤井家では、プラスチック製品が出回るようになってからも、「くみるとアカンから」と竹製の籠を使用した。特にオオカンゴは、アオメの運搬・保管に多用した。ただし、茶生産が多くなってくる昭和30年代からは、広い場所では、手製の布袋(20㎏入布製肥料袋8枚を縫合せた)を使用した。
芽入れ小屋ができるまでは、夕方、茶園から持ち帰ってきたオオカンゴから、家にあるオオカンゴにアオメを蒸れないように捌きながら入れ、満タン入れたアオメの真ん中を擂り鉢のように掘って、熱気を逃がす。さらに、それをカドに置いておき、くみるのを防ぐために夜露にあてて冷やし、寝る前に取りこんだ。
芽入れ小屋ができてからは、そこにビニールシートを敷き、広げた。気温が上がる二番茶の頃には、床に打ち水をしてシートを敷いた。オオカンゴの使用はこのあたりで終わっている。また、昭和60年に、冷却装置の付いた八木式コンテナを導入してからは、摘んだアオメを直接そこに入れて運べて低温保存が可能なため、芽入れ小屋も必要がなくなり取り壊した。
一方、荒茶の保管には長らくカンビツ(缶櫃)が使われてきた。品種別・茶園別・製茶順別に準備された缶櫃の中の荒茶は、茶紙が二重になったタテ(40㎏)に詰められ(これを「チャカケをする」という)、茶商に引き渡した。昭和50年半ばから、農協の協販で市場に出す際には、紙・ビニール・紙と三重になったタテ(30㎏)で出荷した。
製茶技術の変遷
左は、粗揉機で、右が精揉機。
製茶は、手製から半機械製(半機)になり、やがて全自動で行えるようになったことが表から分かる。以下は、昭和15年以前の藤井家の半機製茶風景である。
- 1貫800匁を籐の籠に入れて早蒸し(時々ケンズイの茶団子も蒸した)
- 1.をうちわで冷ます
- 粗揉機(40分手回し)。松や雑木の割木(年間50束=200貫)使用。
- 3.を掴んで「モドリ(弾力)」が良い加減なら、藤箕に入れてホイロにあける。
- サバキ・ナカモミ・シアゲで1時間。「シーシーシーシーッ」と汗だくで掛け声をかけながら揉む姿を覚えている。
茶小屋には1基の土製ホイロがあり、ホンガミは小麦粉糊で張付けてあった。
湯船での手揉み法は「ハウチ・ヨコマクリ・サマス・モミキリ・ツクネモミ・カマチズリ・カンソウ」とカマチ板の使用が見られた(5)。すでに半機だったが、父・重平はカマチ板は使っておらず、撰原でも見られなかったという。なお、石寺には戦後しばらく、土製の乾燥機を据えている家もあった(二瀧嘉久さん・T12生)。
5.前出『山村のくらしII』