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ホイロ小屋の周辺

愛宕さん・献茶祭

勝手口上に据えられたイエの神さん棚。
ここに愛宕札を供えた。エビス大黒も

工場は、一階はセメント敷きで一部(4畳ほど)床となっていて、茶櫃やカゴ類などが置かれた。また半二階(約10坪分)となっており、そこ家財道具置き場となっていた。

製茶を行う際には、火の元に十分注意をした。ムラには愛宕講があり、参詣後もらうお札を神棚に供え、防災を願った。松本千代乃さん(T15生・石寺)は、茶工場内の蒸し器あたりに、今も愛宕札を這って防災祈願をしている。

また、中尾園(園)が主催する「献茶祭」が、昭和40年頃から平成6年まで行われた。各区で一番茶を持ち寄り、石清水八幡宮と日吉神社にそれぞれ献茶した。宗助さんは、撰原で12軒の茶農家の一番茶(400g)を缶櫃(2缶)に入れて集める取締役をしていた。

昭和47年からは、町内の天満宮にも献茶をおこなうようになった。藤井家は平成18年まで天満宮へ献茶を行っていた。

軒端の薪・ツシの炭

昭和15年当時、粗揉機には、松割り木と雑木割り木をあわせて50束(1束4貫目)、ホイロの燃料の炭10俵あれば、一番茶を全部製茶できたという。宗助さんは、冬仕事に薪割りと炭焼きに毎日山に行った。薪は家事用も含めて割って軒下に、焼いた炭は炭俵に入れてツシに上げておいた。昭和42年まで、製茶の燃料は、粗揉機が薪、精揉機と乾燥機がそれぞれ炭であった。

ハバンの消滅

葉番茶(京番茶)

昭和16年ごろ、藤井家では総出で一番茶の後のハバン(葉番茶・自家用)作りをしていた。鎌で刈った茶枝は、押切りで2寸程に切り刻み、蒸し器でしっかり蒸す。カド(前庭)と近くのシラハタ一面に筵を広げ(約100枚)、そこに蒸し上げた茶を天日干しした。ハバンで作っていた主食の茶粥も、戦後しばらくすると機械製の番茶で作られるようになった。

また、寿美栄さんが西井リエさんというムラの産婆さんから「赤ちゃんが便秘したときに飲ませなさい」と、薄く煮だした葉番茶に砂糖を一つまみ入れたものを勧められた。

茶殻利用

一方で、カドでは最近でも、茶殻を干すことがある。飲み終えた緑茶の茶殻を笊などに干し、それを枕の中に芯として詰める(従来はスリ糠)。茶は頭を冷やすと言われ、またほのかな香りもあり、安眠に良いという。

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