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製茶品評会への挑戦(明治時代)

1877(明治10)年に、日本で初めての内国勧業博覧会が開催された。それまでの博覧会と銘打ったものは、そのほとんどが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的であったが、この博覧会は、「勧業」の二文字を冠し、殖産興業推進に不必要な"見世物"のイメージを否定し、欧米からの技術と在来技術の交流の場となる産業奨励会としての面を前面に押し出している。全国から集められた出品物の優秀作には賞牌・褒状等が授与され、技術の向上を啓発した。茶部門の最高賞は、東京都、京都府、埼玉、愛知、滋賀、石川、宮城各県の出品茶が占めた。

第三回の内国勧業博覧会(明治23年)も東京上野公園で開催され、煎茶では紀伊郡(主として、現在の京都市伏見区に該当する地域)、宇治郡が高い成績を挙げる。綴喜郡、相楽郡は、下位の入賞に終わったが、三等有功賞に2名が入賞した。相楽郡では加茂村、高麗村と和束3村(湯船村:小西友右エ門[三等有効賞]、植村喜四郎[褒賞]、田中武右衛門[褒賞] 東和束村:久保淺次郎[褒賞]、久保喜八郎[褒賞]、坊次郎右衛門[褒賞]、東利三郎[褒賞]、中和束村:田中清左エ門[三等有効賞]、稲垣武治[褒賞])が入賞した。

第四回内国勧業博覧会(明治28年)は平安京遷都1100年記念事業で整備された京都市岡崎公園で開催された。相楽郡は、煎茶の部で紀伊郡や宇治郡と遜色のない成績を収めた。木津村も出品し、和束3村(湯船村:小西友右衛門[有功三等賞]、製茶改良社[有功三等賞]、田中武右衛門[有功三等賞]、田中藤右衛門[褒賞]、植村喜四郎[褒賞] 東和束村:國富社[有功三等賞]、荒木喜兵衛[褒賞]、中和束村:稲垣幸吉[有功三等賞]、田中清左衛門[褒賞])が入賞を果たした。入賞点数では宇治田原村を凌いだ。

また、現在の全国茶品評会にあたる第一回製茶共進会(明治12年)が横浜で開催され、全国から848人が出品した。京都府からは、煎茶の部では、宇治郡18点、久世郡125点、綴喜郡42点、相楽郡12点の出品があり、和束からも12名から出品された(久保見新兵衛[石寺村]、西田和助[白栖村]、姫野利兵衛[別所村]、中山定右衛門[南村]、向井弥四郎[釜塚村]、稲垣栄三郎・稲垣九郎兵衛[杣田村]、東和助[園村]、北藤重朗[中村]、堀庄右衛門[門前村]、久保吾兵衛[原山村]、前田栄三郎[湯船村])が、残念ながら入賞するものはなかった。宇治茶が最高賞を受賞したことから、京都の茶業界は関係者に寄付金を募り、賞金と併せて資金を造成し、宇治製茶記念碑を建立した。同碑は平等院門前にあり、その前で毎年製茶記念日(10月1日)に、宇治茶の発展に寄与された恩人への感謝と今後の発展を祈念する、製茶記念式典と茗魂祭が行われている。

明治政府や茶業団体は、殖産興業を推進するため、このような技術研鑽を促す共進会を開催して全国の物産を集めて審査を行い、優れた物産や生産者を表彰し、生産技術の向上を促した。和束郷も、宇治や醍醐、田原など名産地がひしめいている中で、果敢にも出品を行い、その存在感を示しつつあった。しかし、宇治や宇治田原の品質には遠く及ばず、明治時代には、山間地域にある茶産地のひとつに過ぎなかった。

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