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日本茶輸出の略史

安政5年(1858年)に日本とアメリカ合衆国の間で通商条約(日米修好通商条約)が結ばれ、安政7年(1859年)に神奈川(横浜)、長崎、箱根の三港が開かれ日本茶の輸出が盛んとなった。欧米の貿易商は、積極的に煎茶の買い付けを進め、翌年には120万斤(約720t )が輸出された。茶貿易は横浜港が主であったが、慶応3年(1867年)には神戸港の開港が行われ、関西地方の茶貿易の隆盛の契機となった。 輸出向け生産として、静岡県の牧の原台地が開拓されたように、京都府でも旧士族の授産事業として南山城村童仙房での茶園造成が始められた。

神戸開港当初には神戸に茶の再製施設がなく、横浜で再製して神戸に送り返していたが、明治5年(1872年)には、神戸にも再製所が設置された。しかし、再製所は欧米人が経営しており、日本の茶商は、外人商社に売り渡すことしかできず、多くの利益を得ることが困難であった。

当時の茶の輸出先は、イギリスとアメリカの二国であった。明治9年から13年の統計から、国内供給を少し上回る量を輸出し、明治末年までの間には、生産量の60%以上を輸出していた(例外は、明治31、41、44、45年)。このことは、明治以来、太平洋戦争開戦までの日本茶業が、輸出主導型産業であったことを物語っている。

輸出の当初から好況への気の緩みもあり、粗製濫造や異物混入、着色などの粗悪贋造茶の出荷が横行した。輸出相手国の信用が失墜して輸入禁止の処置などを受けて、国内では信用回復のための法令による取締り、茶業を取り仕切る組織の強化などの対応がなされる。

京都府では、明治3年(1870年)に「製茶濫製を厳禁」する布告を出し、翌年には、「粗悪茶厳禁」の布告を出している。明治7年には、政府が内務省に勧業掛を設置して粗悪茶の取締りを行い、明治12年(1879年)には横浜、明治16年(1883年)には神戸の全国茶業者大会において、粗悪茶対策についての申し合わせ、建議を行った。その前年、明治15年(1882年)に、主たる輸出相手国である米国が、贋造茶輸入禁止条例を成立させたことから、農商務省農務局が粗悪茶への注意を喚起する布告を出した。

このような対応にもかかわらず、粗悪茶の出荷が後を絶たず、明治17年(1884年)には、政府が「茶業組合準則」を発布、明治20年に罰則を規定した「茶業組合規則」が設けられた。京都府でも、明治44年(1991年)には、茶に対する異物混入、着色、着香等粗悪茶の取締りをするため「製茶取締規則」を制定して罰則を設けた。

輸出停止による減産(明治5~30年)茶の生産量

輸出停止による減産(明治5~30年)茶の生産量グラフ

輸出産業として出発した日本茶業は、その後、輸入国である欧米各国と輸出国である中国の谷間にあり、20世紀前半の戦争の時代に、戦況などによって変化する国際的な緑茶の需要変動に翻弄されることになる。 明治14年(1881年)から贋造粗悪茶が原因で輸出不振となり不況に陥っていたものの、明治25年(1892年)に景気が回復し好転に向かった。

明治27年(1894年)には日清戦争が勃発し、茶価の低落、賃金の高騰で再び不況になり、明治37年(1904年)の日露戦争によって追い打ちを受けた。一方で、明治24年(1891年)から米国向け輸出が停滞し、明治41年(1908年)には米西戦争の戦費調達のため、アメリカは輸入茶に高率な関税を課したことで日本茶は危機的状況を迎えた。同時に、インド、セイロン紅茶のアメリカ市場への進出で大正元年(1912年)にはアメリカの紅茶輸入量が緑茶を上回った。ボストン茶会事件(1776年)以来、中国や日本からの緑茶を輸入していたアメリカであるが、イギリスが植民地インドで紅茶生産を成功させると、嗜好は東アジアの緑茶からインド産紅茶へ流れ、日本からの緑茶輸出量が減少していった。

大正3年(1914年)から大正7年(1918年)にかけての第一次世界大戦では、イギリス産紅茶の代替として日本茶は空前の好景気となり、大正6年(1917年)には最大の輸出量を記録し、アメリカ向けにその80%が輸出された。しかし、一時的な茶不足を生じて輸出の絶好機であったにもかかわらず、日本では粗悪茶が横行して、輸出に向ける良質茶の確保ができず、輸出の伸びに結び付けられなかった。第一次世界大戦後は、アメリカ市場から閉め出された日本茶は行き場を無くし、紅茶への取組や、当時植民地であった台湾での大規模経営を画策したが、日本茶輸出の長期低迷は挽回できなかった。

不況の中ではあったが、大正14年(1925年)頃から、中国から茶を輸入していたソ連が、日本のグリ茶(昭和7年から茶銘を玉緑茶とした)を輸入し、また、昭和8年(1933年)頃から紅茶の輸出も加わり、ソ連向けのグリ茶や紅茶と、中国東北部(旧満州)向けの毛峰、着香茶、てん茶が輸出を維持し昭和12年(1937年)が輸出のピークとなった。

太平洋戦争となり、生産資材等の不足、割当て配給、主要食糧作物への作付け転換、労働力不足、園地の荒廃化、価格統制により、茶園面積の減少、生産量の減少となり、明治25年(1992年)以来の最低面積、明治19年(1886年)以来の最低生産量となった。

第二次世界大戦後、日本は紅茶生産圏の戦後復旧の遅れに目をつけ、紅茶市場への進出や、北アフリカ向け蒸製玉緑茶の生産に特化し輸出を進めたが、その後、内紛を終結させた中国や台湾の台頭により、日本茶は国際的な価格競争に対抗できなくなった。

昭和30年代には、高度経済成長が始まり、農村から流出した若者が、都市で新たな家庭を築き、国民一人あたりの年間茶葉消費量が1kgを突破した。国内の急激な緑茶消費量の増加で国内の茶生産量が追いつかず価格が高騰したため、緑茶の輸入自由化が開始され、昭和41年(1966年)に輸入量が輸出量を上回った。

江戸時代末期の開国時に輸出向けとして始まった本格的な煎茶生産が、ようやく日本人の生活習慣に根付き、茶業は輸出型茶業経営から、内需型茶業経営に方向転換していく。

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