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明治時代

産地の原点は煎茶
明治時代の山城地域では、碾茶、玉露、煎茶が生産され、当時は全国屈指の産地であった。相楽郡では煎茶生産を主とし、生産量は綴喜郡と同程度であった。相楽郡の煎茶の大部分は和束で生産されていた。
製茶品評会への挑戦(明治時代)
明治時代には、殖産興業の政策で、内国勧業博覧会や製茶共進会が開催され、茶産地が茶の品質を競った。和束の生産者は果敢に出品を行い、初期には入賞を果たせなかったが、次第に製茶技術が向上し、湯船村や東和束村、中和束村から入賞者を輩出した。
日本茶輸出の略史
幕末以来、昭和30年頃まで、日本茶は輸出産業であった。しかし、不正茶の横行や度重なる戦争により翻弄され、好況と不況の繰り返しであった。
茶業の不振と紅茶生産(明治中期の茶業)
米国への輸出で不正茶が横行し、政府は茶業界に対して啓発、徹底をはかるための中央組織の設立を指示する。しかし、輸出は不況となり、茶園が多作物に置き換わる事例もあった。世界的に取引の多い紅茶生産の奨励も行われた。
生産量で圧倒するも、品質が及ばず(明治30年~昭和初期)
煎茶の生産量は、他産地に比較して増加していくが、品質面では、宇治田原の後塵を拝していた。茶の栽培、製造について、技術の平準化が大きな課題であった。
製茶工場設立の誘導(明治後期の茶業)
静岡県で清水港が開港され静岡が輸出主体の産地となったが、米国の茶税撤廃(明治34年)による茶価高騰を受けて、京都府においても山城茶の品質向上による輸出促進の動きが活発化した。
手揉みから機械製茶へ
輸出により各地の茶業が発展を遂げたのは、伝統的な技術に支えられた手揉み製法によるものであった。しかし、手揉みでは一人一日あたり数キログラムという生産量であり、到底海外の需要に応えることはできず、製茶工程の機械化が大きな課題となった。
機械製茶の推進
相楽郡や綴喜郡を中心に煎茶輸出のため、相楽郡製茶販売組合が設立され、第一次世界大戦による経済的影響を受けて労賃及び諸資材が高騰したため、余儀なく機械化が促進される結果となった。