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品質向上には、肥料も大切(国際紛争で肥料の逼迫)

農作物の栽培には、それまで菜種油粕や大豆粕など有機質肥料を使用していたが、第一次世界大戦の後に、窒素を含む速効性の化学肥料、硫安(硫酸アンモニウム)の使用が飛躍的に増加する。茶業では、京都府茶業組合聯合会議所が、適切な肥料の使用方法を試験するため、桃山本場や木幡試験園では玉露、田原分場と和束分場では煎茶の試験ほ場を設けた(大正8年、1919年)。和束分場は中和束村釜塚に60坪(約200m2)の試験茶園を設置した。製茶の改良は栽培技術や製造技術の向上・啓発に及び、それ故に京都府や茶業界は、茶園品評会や製茶品評会を開催し、技術研鑽に努めてきたが、やはり製茶改良の要諦は茶畑の肥培に帰着するとの考えが基本にあり、肥料の調達や技術改善への問題意識が高かった。

昭和初期には、肥料の逼迫、高騰によるのか、効率的に肥料を施用する方法や、下肥(人糞尿)の腐敗と作物との関係などが雑誌「京都茶業」で議論され、人糞尿を腐敗させて使用することが奨励された。人糞尿を腐熟をさせるため、茶畑に隣接してそれを溜めておく肥料溜壺の設置も奨励された。

肥料溜壺の効果を現代の科学的な視点で評価すると、窒素を豊富に含んだ屎尿を嫌気的(空気が行きわたらない)条件で腐熟させることにより、アンモニウムイオンを多量に含む液体肥料が生産される。アンモニウムイオンは、茶樹が特異的に吸収する肥料成分であり、樹体内でのアミノ酸合成を促進して、緑茶のうま味成分を作る。雑誌「京都茶業」(昭和6年版)に「山城茶の優秀なるは惜しげなき肥料の過用に因由する」と記載され、窒素質肥料の多用が、品質向上につながることが周知されていた。

昭和7~8年頃には、東南アジアなどから調達される大豆粕や菜種油粕が、国際紛争や経済封鎖で高騰することもあり、節約して使用することが指導され、これと並行して、肥料を自給できるよう緑肥作物の栽培が奨励された。和束でも、茶園のうね間に緑肥作物を栽培する試験に中和束村の澤樹徳平、岸田清一郎、東和束村の奧清左衛門、奧甚兵衛、今西梅太郎、西和束村の渡邊新次らが協力した(昭和8年、1933年)。

昭和12年(1937年)には、京都府は流通肥料の逼迫を受けて、肥料対策に積極的に乗り出す。購入肥料の節約や肥培管理の徹底、自給肥料増産を強く呼びかけている。特に自給肥料では緑肥栽培面積の増加、草刈りデー設定、堆肥一斉積み込み週間などの励行を、生産者に要望した。太平洋戦争末期の昭和19年(1944年)には、京都府は自給肥料増産の一環として厩肥増産のため無畜農家の解消をスローガンに、無畜専業農家には牛、馬、無養鶏農家には鶏を飼養させるために緊急協議会を開いた。

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