このページの本文へ移動
  1. ホーム >
  2. 茶業史を知る >
  3. 和束町茶業の歴史 >
  4. 機械製茶で和束茶業が躍進 

機械製茶で和束茶業が躍進 

機械製茶の技術が向上し、これまで半機と呼ばれた製茶工程の一部を機械で補う方式ではなく、仕上げ揉みを行う精揉機が急速に導入され、すべての製茶工程を機械を使用する全機械製茶に変わりつつあった。和束においても、機械製茶が主流となる中で、様々な技術研鑽の取組が行われた。昭和初期には、中和束村製茶場技術員の辻光治、田中忠平が、茶業研究所主催の機械製茶法講習会に参加している(昭和2年)。その後も、茶業研究所は、毎年3月15日の茶業研究所記念日に技術講習会を開催し、和束から多くの茶生産者が聴講に駆けつけた。東和束村では独自に製茶大量品評会を開催し、出品数16点、参考品56点を得て、優等に早川安次郎、1等に谷庄次郎、中尾六衛門、2等に竹内松太郎、今西梅太郎、竹内治一が入賞した。

製茶品評会に替わり製茶品位審査会が開催(昭和11年)され成績優秀のも50名が合格した。和束からは西和束村1点、中和束村7点、東和束村7点、湯船村11点の出品があり、合格者は、湯船村の前田茂三郎、田村楠太郎、大谷清吉、宗貞一、植村徳太郎、中西順郎、宗正一、東和束村の奥清左衛門、今西梅太郎、中和束村の岸田精一郎であった。

京都府茶園品評会も毎年開催され、多くの生産者が出品をして、入賞に輝いた。昭和6年では、一等賞に東和束村:奥田重太郎、中井儀作、中和束村の辻光治、二等賞に東和束村の早川安次郎、中和束村の大西重三、畑松蔵、森田平治、三等賞に湯船村の柚木大蔵、東和束村の中井多吉、奧福太郎、久保五三郎、中和束村の辻市治郎、但馬喜宗次、辻秀吉の名前が見える。昭和13年の製茶品位審査会及び茶園品評会の褒賞授与の席で、茶業研究所の吉江氏が講評の中で、「地方別に見れば、宇治、木津川の沿岸沖積地帯、宇治田原村、湯船村地方には、樹勢旺盛にして優良なる茶園の多数存在するを見たり、反之古来より名茶産地を以て知られたる宇治地方台地地帯、和束地方笠取地方の優秀なる茶園の少なかりしは誠に遺憾とする所なり。」と述べている。湯船村の茶園を評価し、その他の和束の茶園に苦言を呈している。元々は力のある煎茶産地に対して、力を抜くことが無いよう、奮起を促す講評であった。

一方で、茶園面積を増やすため、茶園の新植についても茶業界や京都府が奨励し、中和束村新植組合では総会を開催し「釜塚において茶業熱勃興し各自山林を開き、実行事項の協定する。」との決議を行った(昭和4年)。新植茶園品評会(昭和6年)において、優等賞に中和束村の辻 市治郎、1等賞に中和束村 田中儀一郎、畑 松造、2等賞に東和束村 森下巳之助、中和束村の 畑 寅三郎、田中清三、3等賞に中和束村 畑 孝一郎 、岸田正治、湊 順吉、澤樹平吉、岡田繁次郎が擬せられた。

これらの生産奨励の取組は、昭和15年の第4回製茶品位審査会を最後に、開催の記録は見あたらない。戦争の拡大は嗜好品を追いやり、食糧生産が国策として推進され、府では樹園地整理し、麦作へ転換することとなった。麦生産目標25万石を達成するため1690町歩の桑園、茶園、果樹園を整理して麦作に転換を指導した。

和束町茶業の歴史 TOP