販売戦略を持った"茶商"の登場
江戸時代になると幕府の統治が浸透して社会が安定する。農業技術も発達し、水田裏作で菜種の栽培がなされ、菜種油の流通により夜間にも活動ができる時代となり、市民生活が飛躍的に豊かになった。これらの社会変化により、茶の需要も自ずと増加してきた。江戸時代の和束の茶業については、以下の古文書により、うかがい知ることができる。
大智寺所蔵文書(1709年(宝永6年))には、「畑方之作毛煎茶下価ニ罷成・・・・」という記録があり、永谷家旧記には、「和束郷にも寛延(1748~50年)原山二人、宝暦(1751~63年)門前二人、明和(1746~1771年)石寺一人」とあり、明確に茶業を営むものがあらわれた。宇治の茶商に販売し、多くの利益を得たので農家の副業として茶業が普及していったという。白栖村明細帳(寛保3年、1743年)においても、禁裏新御料であった同村の茶樹栽培の様子を「煎茶第一仕リ但シ壱ヶ年ニ三百本程度売出シ候、壱本ニ付六七匁ニ而価段仕候、御見取之内茶畑八分通リ御座候」と煎茶の生産が盛んであったことを伝えている。
江戸時代後期の天保年間(1830~1843年)には、和束郷で茶商を営む筒井嘉兵衛が、それまでのように宇治の茶問屋には売らずに、直接江戸伝馬町二丁目の、芽加屋善右衛門という茶問屋に出荷したところ、品質良好で特に香味が他地方産よりすぐれているというので好評を受けた。それ以来同人の手によって江戸方面に売却され、取引高はおよそ1千斤と言われた。また、原山の久保八郎衛門は遠く広島市大手筋二丁目に茶店を営み、安政5年(1858年)には松平芸州守の御茶御用となり、中国地方にも和束茶の名が広まったと言われている。(「京都府茶業百年史」(昭和61年 京都府茶業会議所刊))
このように、江戸時代の後半には、和束郷では、茶の生産や加工だけにとどまらず、消費地に直接販売をする業態が成立していたのである。1734年に発刊の地理誌である山城志には、和束郷の"土産"として「茶」の記載があり、茶が他の農作物などを抑えて和束郷の特産品であることがわかる。特産品というからには、広く流通し商品として販売されていたに違いない。永谷宗円が蒸製煎茶を発明したのは1738年とされているが、それ以前にも同様の煎茶が生産されていたことを指摘する文献(日本茶業発達史、宇治茶の文化)もあり、和束郷においても、この時代には蒸製煎茶を生産していた可能性もある。
加えて「城江銘茶製所鑑」(嘉永6年 1853年)には、山城国と近江国の茶産地が番付表に記載され、東之方大関に宇治、西之方大関には湯谷(宇治田原)を配し、宇治や宇治田原の産地に混じって和束郷原山が最上段の前頭10枚目に位置している。番付表の序列の意味するところは、茶の品質とともに、生産量の多さ、産地の大きさや勢いを示したものであろう。幕末においては、原山は山城地域では主たる産地のひとつであり、相楽郡では最高位の茶産地であった。原山を含む和束郷14ヶ村いずれもが番付表に格付けされ、相楽郡他村に比べ上位を占め、郡内一番の産地であった。原山村を擁する東和束が、その後の合併により東和束村となり、明治大正の和束茶業の推進役となっていく。