茶が輸出戦略品目となる
和束郷の茶業が著しい発展を見たのは、安政5年(1858年)に日米友好通商条約が調印されて、外国に販路が開かれたことに依る。安政6年(1859年)の横浜開港、慶応3年(1867年)の神戸港開港によって、茶が輸出の主力農産物として脚光を浴びたことから、海外からの需要拡大に伴いたちまち茶価が高騰した。農家は争って山林原野を開墾し、茶園の拡大を図った。製造方法に改良を加え全郷をあげて増産に精励したのである。茶農家の中には、みずから神戸(中央区栄町通り)に設けた輸出商館において、外国人を相手に和束茶の輸出を行う者も出現し、明治7年には、宇治茶の小売店舗を中央区元町三丁目に開店するに至った。当時の店舗の様子が伝えられているが、店頭には「宇治製銘茶」と「印度産加琲」の二つの看板が掲げられ、茶の輸出・販売だけではなく、輸入したコーヒーの販売、喫茶店も手がけていた。当時の新聞によると、日本で初めての喫茶店であると紹介されている。