女性の力で摘採作業の効率化
大正8年(1919年)に静岡の内田三平が摘採機(茶摘み鋏)の実用新案特許を取得した。茶摘み労働の効率化に朗報であった。さっそく静岡県茶業組合聯合会議所が、6種類の手鋏の試験を行った。雑誌「京都茶業」には、「手ばさみの効果 4倍」として評価された。
京都府では、大正7、8年頃に、中和束村の畑武一が静岡県で開催された研修会に出席し、茶鋏みを持ち帰ったのが初めての導入と言われている。茶業界で茶摘採鋏の導入の是非が協議され、煎茶産地への導入のため試験が行われた。茶業研究所が茶生産者に委託して試験をする茶園を3カ所(東和束村原山、田原村郷ノ口、宇治郡笠取村炭山)設けて、摘採鋏を応用すべき仕立て方法に関する試験を実施した(大正14年、1925年)。
昭和10年頃になると、製茶機械の統制や普及、肥料の施用方法など、茶の品質向上の課題が解決されてきたが、摘採の能率や摘子の雇用など「摘採」の問題が提起されるようになる。昭和12年(1937年)には日中戦争がはじまり、あらたな労働力を活用するとともに生産費を低減することを目的として、鹿児島県より講師を招き、両手摘み講習会を開催した。府内20カ所で女子青年団、女子青年学校、高等小学校、生産家子女が対象であった(昭和13年、1938年)。翌年も両手摘み講習会(5月12日~26日に各地を巡回)が開催された。和束でも両手摘みの茶摘み競技会も開催され、湯船村の藤田としえ、長西ますえ、石川とよの、植村武子、小西ふさえ、東和束村の奥とみへ、荒木よしの、荒木まさの、東しま、荒木たみの、杉本スエ、森川りく、中和束村の岡田ヤエ、岡田ユカ、吉田しま、岡田やすえ、岡田りの、増田ヨネ、岡田まき、西和束村の伊吹たつえ らが参加した。
大正時代に導入された茶鋏が、昭和10年前後にどれほどに普及していたのか統計資料が見当たらないが、個人経営の茶生産者にとっては高額の農具であり、誰もが手にできるものではなかったのであろう。茶鋏ではなく、若い女性の手によって、少しでも速く、少しでも多く茶摘みができるよう指導された。