このページの本文へ移動

大正時代

和束にも機械製茶の波(大正前期)
和束でも模範製茶工場などができて製茶の機械化が進むと共に、製茶機械の販売代理店も登場して、機械化の促進がなされた。
人材育成と技術改善(試験研究機関の整備)
第一次世界大戦の後、国や京都府で茶業に関する試験研究機関が設立された。茶業界では、静岡などの産地に負けないよう、技術向上が必要なことから、茶業界の要請を受けて、京都府が茶業研究所を宇治に設立した。
品質向上の取組(茶園品評会とい製茶品評会)
大正後期には、毎年、京都府、山城各郡や各村において、茶園管理の徹底や啓発のための茶園品評会や製茶技術研鑽のための製茶品評会が行われるようになり、和束の茶生産者も多くの出品を行い、入賞を果たした。
品質向上には、肥料も大切(国際紛争で肥料の逼迫)
第一次世界大戦の後に、農作物の栽培には、それまで菜種油粕や大豆粕など有機質肥料を使用していたが、窒素を含む速効性の化学肥料、硫安(硫酸アンモニウム)の使用が飛躍的に増加する。市場流通品であるが故、肥料調達には経済的影響を受けた。
女性の力で摘採作業の効率化
摘採機(茶摘み鋏)が発明され、茶摘み労働の効率化の朗報であった。雑誌「京都茶業」には、「手ばさみの効果 4倍」として評価された。一方で、昭和10年頃には、鹿児島県より講師を招き両手摘み講習会を開催した。府内20カ所で女子青年団、女子青年学校、高等小学校、生産家子女を対象とした。
優れた製茶機械で茶を生産する
京都府では、大正後期頃から、手揉みは品評会出品などの上級茶を製造し、機械製茶は下級茶製造仕向けで、粗製乱造に陥りやすいことが懸念されていた。しかしその効率性を無視することはできず、様々な研究会や講習会を通じて、製茶機械研修が開催された。