機械製茶の推進
京都府では、相楽郡や綴喜郡を中心に煎茶輸出のため、相楽郡製茶販売組合が設立され、模範製茶再製工場を建設(明治36年、1903年)し、粗揉機競技大会を開催した(明治43年、1910年)。特に、大正年間に入ると第一次世界大戦による経済的影響を受けて労賃及び諸資材が高騰したため、余儀なく機械化が促進される結果となった。
京都府茶業組合聯合会議所が、紀伊郡堀内村、綴喜郡宇治田原村、相楽郡中和束村に製茶試験場分場を設置し、製茶技術の向上にあたった(大正3年、1914年)。
当初は、粗揉機で下揉みまで行い、その後の仕上げは手揉みで精製する「半機械製」が多かったが(大正6~7年)、製茶機械の改良・発展により、試験研究機関の指導も相俟って「全機械製」も可能となるに至った。大正10年(1921年)の日出新聞は、「機械製茶の成功」の記事が掲載され、手揉み製茶に劣らない機械製茶の成功について述べている。
機械製茶が導入される初期に悪評を被った原因は、主として機械を頼り、収穫増を見込んで摘採期を遅らせ茶葉を硬化させてしまうことと、機械運転の未熟にもかかわらずそれを濫用することにあった。手揉み製茶では八十八夜前後に茶摘み始めたが、機械の普及に伴い摘採作業も手摘みから鋏摘みへ移行する傾向も強く、摘採期を若干遅らせてきたことは見逃せない。当時は、鋏は煎茶のみの利用で、品質が求められる上級煎茶や玉露に普及することはなかった。
品質が向上しないのは、機械性能そのものの問題よりも、それを運転する人の問題であった。昭和10年(1935年)に至り、機械の普及は急激に進み、一部の高級茶を除き、機械が手揉み製品を圧倒することになった。