優れた製茶機械で茶を生産する
日出新聞に「機械茶製造の成功:手揉みに劣ることのない機械製茶に成功」の記事が掲載される(大正10年)が、一方で機械頼みへの警鐘、手揉みにも習熟する必要性の提起もなされていた。この当時には、手揉みは品評会への出品などの上級茶を製造し、機械製茶は下級茶製造仕向けで、粗製乱造に陥りやすいことが懸念されていた。しかしその効率性を無視することはできず、様々な研究会や講習会を通じて、製茶機械の適切な操作能力の向上が目指された。大正12年に開催された製茶機械使用法講習会(6月26日より5日間と7月11日より5日間)には、湯船村の松田教二、東和束村の岡田恭平、堀昇平、中和束村の竹田庄太郎が参加した。東和束村では独自に製茶競技会(7月4日~6日)を開催し純手揉及び半機械製茶の競技会を実施した。この時代には、完全な機械化とはなっておらず、手揉み技術の研鑽が重要視されていたことがわかる。
京都府茶業研究所の初代所長である田辺貢は、本府茶業における機械研究改善の意義について、「現在の機械は大部分が静岡で考案された物であり、当地京都の原料と販路に適応した製茶法と関連して改良、補修すべし。」と述べ(大正14年)、静岡発の製茶機械を京都の茶に適応した使用をすべきとの主張をした。また、茶業共同施設の計画に当たって「煎茶の名産地において機械使用の結果、品質の劣るを防止するために優等煎茶の機械製造を目標とし比較的規模の小さいものを各所に分散配置せんとする、」と述べ(大正15年)、このことが、その後推進される製茶機械の統制に乗り出すきっかけとなった。茶の品質を向上させるには製茶機械の操作を修練することではあるが、その前提として、信頼性の高い製茶機械を使用することが大切である。当時は粗悪な製茶機械も流通しており、一定水準の製茶機械を指定して使用することが、品質の平準化の課題であった。昭和5年に、京都府茶業組合聯合会議所は、茶の品質を確保するため、製茶機械の統制に乗り出した。不良機械の一掃と多種多様な様式にわたる規格を統一し、京都府の製茶の特質に適合する機械を考案・普及することを5カ年計画で実施した。
昭和6年には、統制機械使用者製茶品評会が開催され、製造茶の審査を行い、成績優良の者に賞状授与が授与された。その内訳は、宇治郡7名、久世郡19名、綴喜郡22名、相楽郡31名(和束19名)で、和束の成績優良者は、坊米吉、渡辺源之助、柚木信太郎、森川利三郎、澤樹平吉、田村楠太郎、前田忠次郎、竹谷直三郎、森本周一郎、西島栄一、池田常吉、松田栄良、辻秀吉、前田順、前出新一、向井延治、井上茂一郎、姫野奈良吉、杉本由松らであった。
昭和8年の成績優良者は、湯船村の田村楠太郎、前田格三、柚木大蔵、射場芳太郎、奥田清太郎、東和束村の東和束村産業組合、坊治作、中和束村の但馬米蔵、澤木徳平、田中儀一郎、西和束村の西川竹三郎、西田忠太郎らであった。
昭和10年に第一次機械統制終了したが、二次統制を10年計画で実施予定とし、さらなる品質向上に取り組むこととした。