茶業の不振と紅茶生産(明治中期の茶業)
日本茶の粗製濫造、異物混入が原因となり、米国で不正茶輸入禁止令が出された(明治15年、1882年)。政府は不正茶の製造禁止、輸出禁止等を旨とする「茶業組合準則」を公布(明治16年、1883年)し、茶業界に対し取締や啓発を徹底するための中央組織づくりを促し、中央茶業組合本部が創立された。
京都府においても「京都府茶業組合準則」を制定し注意喚起、自粛を促した。国と同様に茶業団体の組織化が図られ、府内の各郡や区において茶業組合が生まれ、それを束ねる中央組織として、伏見に茶業組合取締所(後の茶業組合聯合会議所)が設立された。
一方で、政府は世界的に取引の多い紅茶に着目し、紅茶製造を奨励した。明治8~9年に勧業寮の技術者であった多田元吉を清国やインドに派遣し紅茶製造法を研究させた。明治22年(1889年)には、京都府でも茶業組合聯合会議所が伏見に紅茶伝習所を設立し、技術研修を行った。さらに、同会議所は、紅茶伝習所を木津町(現 正覚寺付近にあった、木津町公会堂あたり)と丹波高原村にも設置をして、紅茶製造の普及を行った。
京都府の茶商人達は、外国商人の手にある再製利益を取り返し、輸出の苦境を脱するため、製茶の再製と直輸出を目的として山城製茶輸出会社を設立(明治18年、1885年)して事に当たったが、出資をした茶商人の意見があわず、わずか7年で解散している。全国的には、度重なる不正手段により日本茶の信用が失墜し、茶園の維持にも支障を来し、作付けを麦や、芋、野菜等に転換する動きも出てきた時期であった。