戦後の茶業界の動き
戦争による疲弊で充分な食糧確保が困難であり、外貨の備蓄が無い中で、日本茶が食糧見返り物資に指定をされた。このことは茶業の復興は早め、昭和22年には第一回関西製茶品評会が京都府で開催された。戦前と同様に輸出には精力的に取組まれ、全国的には紅茶生産・輸出が活況を呈し、第四回関西製茶品評会(昭和25年)は、「関西輸出茶共進会」と銘打って開催された。
茶業団体や農業団体も再編がなされ、府内における生産者、茶問屋の総合団体として社団法人茶業協会が設立された。農業では、京都府販連と購連が統合し京都府経済連が発足した。
和束では、町村合併が成っていなかったが、和束郷茶品評会が木津高等学校和束分校で開催され(昭和26年)た。和束の茶業者の人材育成を進めるため、旧4ヶ村村長の知事への陳情の結果、和束分校内に茶工場が設置された(昭和29年)。
昭和30年代になって、新たな動きがあった。相楽茶生産組合が府茶業協会から脱退表明をしたのである。その理由は、府茶業協会の新荷票案(販売量に基づく賦課金の徴収方法の案と考えられる。)は分担率が不正確だとするもので、相楽郡茶生産組合が脱退を表明し新組合で対抗すると表明した。その後暫定協定で7月まで静観し、態度を保留することとなった(昭和32年)。生産量の多い煎茶産地としての主張であったと考えられる。結果的に、昭和34年には生産者団体である、京都府茶生産協議会が市町村の茶業部会を束ねて設立されることになる。